乳首
2週間位前にシェアハウスの友達に言われて、未だに考えさせられている言葉が一つある。
“How are your nipples like?”
直訳すると、「あなたの乳首ってどんな感じなの?」っていう、めちゃくちゃ馬鹿みたいな質問。でも、当の本人は至って真剣に(お酒を飲んでいたからどれほどまでかは分からないけど、割と真面目な顔で)聞いていた。
即答出来なかった。自分の乳首ってどんなんだっけ?形とか色とかもどんなのかよくわからなかった。
自分でも気になっちゃって、「ちょっと待って。今確認するわ。」とか言って公衆の面前で自分の乳首を観察しだすという奇妙な行為にでたけど、ただ服の中から覗いただけでは乳首の姿かたちは全くわからなかった。
私がゴソゴソしている様子を見て、「あなた自分の乳首の事について知らないの?」と言われた。
彼女曰く、パートナーと良い関係性を築くためには、自分の身体がどうなっているのかを知るのは当たり前なのだそうだ。あなたもちゃんと自分の事を知ったほうがいいよ、と。
私の考える私って何なんだろう、今まで私が数十年間見てきた《私》って何なんだろう、と思った。
自分に悩まされている割には自分の事何も知らねえじゃねえかよ!!!っていう矛盾。
私はどちらかと言えば、「最適化」するのが得意だ。人のペースや性格に合わせたり、求められている環境や問題に対して一番良い答えを導きだしたり、そういった大きな枠とか、既に決められたモノの中でベストを尽くす、みたいな部分が求められる場面では割と強い方だと思っている。
それに対して、オーストラリアでの生活はこの得意技を活用出来ない場面の連続なのだ。
人に合わせる必要が無いから、「自分」という個性が大切になってくる。
何か決められた事をやる必要は無いから、「自分」が何をやりたいかが大切になってくる。
人から見た自分じゃなくて、組織に属している自分じゃなくて、自分と向き合った時だけに見える精神的な・肉体的な、絶対的な自分って何なんだろうね…
でもそれって自分以外の人達が存在するからこそ生まれてくる特徴、相対的な視点があるからこそ生まれてくる概念でもあるのかなあとも思ったり。
とりあえず、自分と「向き合う」前に、乳首を含め自分の事を「知ろう」としないとダメだなあと思わされた瞬間だった。
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